「ジゼル・ツェラン=レトランジュ」追記

少し前に神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催されているジゼル・ツェラン=レトランジュの版画展に関するエントリーを掲げ、出品されているエッチング「ワインと忘却のときに Bei Wein und Verlorenheit」(1974-75年)に含まれるパウル・ツェランの一節を引用して、簡単なコメントを添えた。会場の解説文に掲げられているのは、タイトル「ワインと忘却のときに」を含めておそらく飯吉光夫氏による邦訳であろう。その後わたしは中村朝子氏による『改訂新版 パウル・ツェラン全詩集』(2012年)にあたってみて、原詩は1963年に刊行された詩集『誰でもない者の薔薇』に収められていることを教えられた。中村氏による訳を次に掲載させていただく(原詩は無題である。冒頭の“Bei Wein und Verlorenheit”は「葡萄酒と孤独のもとで」と訳出されている)。

 

葡萄酒と孤独のもとで、その

ふたつともが終わりかけているときに……

 

ぼくは雪のなかを駆けた、聞こえるか、

ぼくは神に乗って遠くへ駆けた―近くへ、神は歌った、

それは

いくつもの人間・ハードルを越えていく

ぼくたちの最後の騎行だった。

 

それらは身をかがめた、

ぼくたちを自分のうえに聞くたびに、それらは

書いた、それらは

偽って、ぼくたちの噺きを

自分たちの挿絵で飾られた言葉の

ひとつに書換えた。

(中村朝子訳『改訂新版 パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』)

 

1-2行の“Bei beider Neige”のニュアンスについては「ジゼル・ツェラン=レトランジュ」においても触れた。中村氏は葡萄酒と孤独とがともに汲みつくされようとする状態を読み取って(とりわけBei の反復に慎重な注意をはらって)、「終わりかけているときに」と訳されている。達意の翻訳だと思う。『全詩集Ⅲ』のあとがきで中村氏は飯吉光夫氏の名をあげ、「始終参考にさせて頂いた」と書かれている。この詩についても氏の訳を参照され、その上でこの解釈を採られたのであろう。

原詩の何重ものコノテーションと響きを翻訳することは不可能だから、訳者は日本語としての多様な表現の可能性を切り捨てる決断を迫られる。だから一般読者もできる限り原詩にあたり、また多くの苦心の訳業を参照する必要がある。

ジゼルがパウルの死後にこの63年の作品を取り上げ、自作を寄せたことを通して、われわれはジゼルのこの詩に対する見方をうかがい知ることができる。さらにそこからパウルの詩が書かれた背景についての貴重な証言を得ることができる。今回の展示の解説によれば、ジゼルは67年の別居後もパウルの療養を支え、70年の彼の死ののち数年間画業を離れたという。したがって74-75年に制作されたこの作品には、夫の死後に、彼と自分の“共同制作”をようやく再開したときの、パウルの作品に対する彼女の姿勢と解釈が現れていると見ていい。

前回のエントリーで、わたしは「ドイツ語圏で育ったパウルとフランス貴族の出であるジゼルの出会いと別れを、差し向かいで飲み干すワインの形象を通して、死を間近に控えたパウルが意図的に描出したものと解すべきである。」と書いた。しかしこの詩が63年制作である以上は、「死を間近に控えたパウルが意図的に描出した」という指摘は間違っている。近代美術館の展示を見た時点で原詩の制作年を知らなかったわたしの失敗だから、ここで次のように訂正させていただく。「パウルの死後、ジゼルが亡き夫の作品に向かい合う制作(夫が遺した、生き続ける詩との共同制作)を再開するにあたって、この作品を彼女が選択した理由のひとつは、ドイツ語圏で育ったパウルとフランス貴族の出であるジゼルの出会いと別れを、差し向かいで飲み干すワインの形象を通して読み取ったことであると推測できる。」

弁解がましく感じられるかもしれないけれども、ジゼルという共同制作者の視点を通して、パウルの詩を読むヒントが得られると愚考し、この追記を書いた。会場に掲げられたおそらく飯吉氏による翻訳も、この視点をふまえたものと推察する。

中村朝子氏の訳業におおいに教えられた。素人のこのような感想文のなかでたいへんおこがましいけれども、記して感謝いたします。

【さらに追記】

1 神奈川県立近代美術館鎌倉別館の「ジゼル・ツェラン=レトランジュ展」で、“Bei Wein und Verlorenheit”の解説中に掲げられている邦訳は飯吉光夫氏のものではなかった。わたしは会場で訳者名を確認しなかったし、カタログも購入していないので、どなたの訳なのかいまの段階ではわからない。飯吉光夫訳『誰でもないものの薔薇』(1990年)所収の訳を参考までに掲載させていただく。

葡萄酒と忘我のときに、この二つの

盃とおのれを傾ける滅びのときに――

 

僕は馬にまたがって雪中を駆けった――聞こえるだろう、君には?――

僕は神にまたがって遠近(おちこち)へ駆けった、神は歌っていた、

これは

他の人間どもの垣をとび越える

僕らの最後の騎乗だった。

 

頭上をとび越す僕らの歌声を聞いたとき、

人間どもは身をこごめた、彼らは、

僕らの嘶(いなな)きを

別の嘘の言葉に、

彼ら独自の像をもつ言葉に

書きかえた。

2 これはまことに書きにくいことであるが、いま引用した飯吉氏の訳にもある通り、最後から4行目の「嘶(いなな)き」(カッコ内のふりがなは原文ではルビ)は原詩でもたしかに“Gewieher”なので、中村氏訳の「噺き」は誤植であろう。(原詩の該当箇所は“sie/ logen unser Gewieher/ um in eine/ ihrer bebilderten Sprachen.”である。) 念のため中村氏訳の上記引用は2012年の改訂新版第1刷の原文ママであることをお断りしておく。

 

 

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