モーリス・ピアラ『愛の記念に』

光源と実物を振り返って見ることのかなわない、穴蔵に暮らす者どもが見ているのは壁に映る影絵に過ぎない、という洞窟の比喩は、その実物がさらにまた別の実物の影絵ではないとどうして言えるのか、という無限遡行の問いをもたらすので、出来のよい喩えとは言えない。しかし、穴居人たちが見ているその映像が、現前でありかつ再現前でもあるという点を指摘していることについては、一定の評価が与えられてよい。

いまわたしたちはプラトンの設定を少し離れて、穴居人たちには行動の自由があり、彼らの背後の人形芝居のみならず、自分たち自身の影をも洞窟の壁に映し見ているということにしたい。やがて彼らはその自分たちの影絵を自ら演出し、彼らの背後からの人形芝居とは別種の“人間芝居”を制作し始める。いずれにせよ洞窟の壁に映し出される景色には違いないので、そこに現前と再現前との基本的な相違はない点に注意してほしい。

さて、わたしたちが知っている映画作品の多くは、たいていこの穴居人たちが見ている、もともとの人形芝居の劣化コピーにすぎない“人間芝居”である。しかしそれが映画の常であるわけではない。ときとして穴居人は自分たちが上演しているその影絵が、ふだん見慣れた洞窟の壁絵とはまったく異なる現前であることを知る。

この穴居人たちの神話の時代には、あえて光源を振り返って目を潰した者もいたと言われている。そうした時代は遥か昔のことなので、いまそんな愚かな挙に出る者はいない。そのかわりにいまの穴居人は、壁に映る影絵そのものを注視し、光源を無化しようとする。もともとの人形芝居ではない、自分自身の影を映して、そこに現前を生み出してみせること。『愛の記念に』(モーリス・ピアラ)はそういう峻厳な作品である。

注記 ふだん、映画については具体的に書くのがなりよりだと言っているにもかかわらず、比喩に下手な比喩を重ねるこの無意味な記述はなんなのだと言われるなら謝る。この作品について具体的に書かなければならない点は本当にたくさんある。しばらくそれらを整理しなければ書ききれないため、今回はこのような仕儀となった。サンドリーヌ・ボネールの片えくぼとおしりの美しさ、ピアラの自分自身を撮影するあの厳しさ、そしてサウンドトラックの稠密については、改めて書きたい。

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